ロシア語の母音の発音について詳しく説明します。
ロシア語の母音音素は5つあります。多くの教科書では、母音音素と実際の発音の違いや、母音の数と文字の数の違いが混同されることが多いので、最初に説明します。
それから、ロシア語の母音の実際の発音を、国際音声記号も使って詳しく説明します。概略を知りたい方は「ポイント」欄を読むだけでも構いません。
また、多くの教科書では簡単にしか説明されない母音の弱化による発音変化についても、詳しく説明します。
はじめに
以下の説明では、音声学の用語を使っています。いくつかの用語について簡単に説明します。
母音の音素(ロシア語の音の体系として存在する音の種類)を / / で、その母音の実際の発音(異音)を [ ] で表しています。
また、いろいろな母音の発音の違いを国際音声記号で表す方法について、次の記事で説明していますので参考にしてください。
ロシア語の母音はいくつあるか
ロシア語にはいくつの母音があるのでしょうか。
入門者向けの教科書には、さまざまなことが書かれています。
ロシア語の母音は全部で10個あり、硬母音と軟母音に分かれます。
これならわかるロシア語文法(初版)
この教科書に書かれた10個というのは明らかに間違いです。おそらく、「母音」の数と「母音を表す文字」の数とが混同されているのではないでしょうか。「母音」と「母音を表す文字」をしっかりと区別することは大事なことです。
ロシア語の母音の体系は日本語と同じで、その数は5つです。
新・ロシア語レッスン 初級(初版)
この教科書では母音の数は5つと書かれていますが、重要なのは「母音の体系」というところです。
母音の数とは母音音素の数のこと
ある人が同じ発音で「あ」と2回発音しても、音声学的に細かく調べると微妙に違う音声で発音しているでしょう。音声学的に厳密に考えると、母音の数は無限にあることになります。
ある言語にどれだけの種類の音があるのかを知るのに、小さな音声の違いを調べることはあまり意味がありません。その言語にはどのような音の種類があって、どのような体系を成しているのか、が重要です。この音の種類を音素(おんそ)といいます。音素が違えばことばの意味が違ってしまう、そのような音の違いということもできます。
ロシア語の母音音素は5つ
ロシア語の母音音素は、/a/, /e/, /o/, /u/, /i/ の5つです。
これらの母音音素が、実際にどのような音声で発音されるかは、次の2つの条件で変わります。
アクセントがないと、母音はやや曖昧に発音されます。特に /o/ は /a/ と同じ発音に、/e/ は /i/ と近い発音になり、軟子音の後の /a/ は /i/ と同じになってしまいます。その結果、一部の母音どうしの区別も曖昧になります。
5つの母音音素が、実際にどのような音声で発音されるのかの概略は、次の表の通りです。
アクセントがある場合 | |||||
/o/ | /a/ | /i/ | /e/ | /u/ | |
---|---|---|---|---|---|
語頭 | [o] | [a] | [i] | [ɛ] | [u] |
硬子音の後 | [ɨ] | ||||
軟子音の後 | [ɵ] | [æ] | [i] | [e] | [ʉ] |
アクセントがない場合 | |||||
/o/ | /a/ | /i/ | /e/ | /u/ | |
語頭 | [ɐ] | [ɪ] | [ɨ] | [ʊ] | |
硬子音の後 (アクセント音節の直前) | [ɨ] | ||||
(その他) | [ə] | [ə] | |||
軟子音の後 | [ɪ]* | ||||
* 語末の /a/, /e/ は [ə] |
では、アクセントのある場合とない場合とに分けて、それぞれの母音音素の実際の発音を説明します。
アクセントがある場合
アクセントがある場合に、母音音素 /a/, /e/, /o/, /u/, /i/ が実際にどのような発音になるか、ひとつずつ説明します。
/a/ … [a] ~ [æ]
/a/ の基本的な発音は [a](非円唇前舌広母音)で、日本語の /ア/ とほぼ同じ発音です。軟子音の後では口の開き具合が少し狭くなって [æ](非円唇前舌狭めの広母音)と表されます。
当サイトでは、[a̠] は使わずに、[a] と [æ] の記号で表します。
/e/ … [ɛ] ~ [e]
/e/ の基本的な発音は、[ɛ](非円唇前舌半広母音)で、軟子音の後では口の開き具合が少し狭くなって [e](非円唇前舌半狭母音)と表されます。
日本語の /エ/ の口の開き具合は、だいたい [e] と [ɛ] の間くらいです。ですから、国際音声記号では違う記号で表していますが、違いをそれほど意識せず、おおむね日本語の /エ/ と同じ発音と考えても問題ありません。
当サイトでは、[ɛ] と [e] の記号で表します。
/o/ … [o] ~ [ɵ]
/o/ の基本的な発音は [o](円唇後舌半狭母音)で、日本語の /オ/ と口の開き具合はほぼ同じですが、唇をもっと丸めて発音します。軟子音の後では舌の最も高くなる位置が少し前側へずれて [ɵ](円唇中舌半狭母音)と表されます。
当サイトでは、[o̞] は使わずに、[o] と [ɵ] の記号で表します。
/u/ … [u] ~ [ʉ]
/u/ の基本的な発音は [u](円唇後舌狭母音)です。標準的な日本語の /ウ/ とは違って、唇を丸めて発音します。軟子音の後では舌の最も高くなる位置が少し前側にずれて [ʉ](円唇中舌狭母音)と表されます。
当サイトでは、[u] と [ʉ] の記号で表します。
/i/ … [ɨ] ~ [i]
/i/ の基本的な発音は、この母音がどのような位置におかれるかによってかなり変わります。
語頭におかれたり、軟子音の後におかれたときは [i](非円唇前舌狭母音)で、日本語の /イ/ とほぼ同じ発音です。
硬子音の後におかれたときは [ɨ](非円唇中舌狭母音)で、日本語の /イ/ を発音するときのように唇を横に引いたまま、舌全体を後ろに引いて発音します。口の開きを狭くして、口の奥の方から、/イ/ と /ウ/ の両方の音を響かせたような発音です。
他の母音音素では、語頭におかれたときの発音は、硬子音の後におかれたときと同じ発音になります。しかし /i/ が語頭におかれたときの発音は、軟子音の後におかれたときと同じ [i] という発音になるので注意してください。
当サイトでは、[ɨ̞] を使わずに、[ɨ] と [i] の記号で表します。
アクセントがない場合:母音の弱化
アクセントがない場合、母音は弱化して、多かれ少なかれ弱く曖昧に発音されます。特に /o/ はアクセントのあるときと発音が大きく変わるので、注意が必要です。
また、/o/ は /a/ と同じ発音に、/e/ は /i/ と近い発音になるなど、いくつかの母音は融合して同じように振る舞います。その結果、硬子音の後(アクセント音節の直前)では /a/, /i/, /u/ の3つの発音しか区別しなくなり、軟子音の後では /i/, /u/ の2つの発音しか区別しなくなります。
母音音素 /a/, /o/, /i/, /e/, /u/ の順に、アクセントがない場合の発音を説明します。
/a/ … [ɐ] ~ [ə] ~ [ɪ]
硬子音の後の /a/ が弱化すると、基本的な発音は [ɐ](非円唇中舌狭めの広母音)や [ə](非円唇中舌中央母音)となるので、日本語の /ア/ を曖昧に発音すれば問題ありません。
もっと細かく区別すると、単語の中でどのような音節におかれるかによって、二段階の弱化があって、それが [ɐ] と [ə] の違いとなります。しかし、特に意識して区別する必要はないので、発音の違いについては、下の補足欄を参考にしてください。
軟子音の後の /a/ は /i/ の弱化した発音と同じになるので、[ɪ](非円唇前舌広めの狭母音)と発音されます。あまり口を緊張させずに [i] を発音します。日本語の /イ/ を曖昧に発音すれば問題ありません。 さらに、軟子音の後の /a/ が語末におかれた場合は特別に [ə] と発音されます。
まとめると、次のようになります。
当サイトでは、[ɐ], [ə], [ɪ] の記号で表します。
/o/ … [ɐ] ~ [ə]
硬子音の後の /o/ が弱化すると /a/ が弱化した発音と同じになります。このため、基本的な発音は [ɐ](非円唇中舌狭めの広母音)や [ə](非円唇中舌中央母音)となって、日本語の /ア/ を曖昧に発音すれば問題ありません。
また、軟子音の後の /o/ は、アクセントのない音節には現われません。このため /a/ の弱化のように [ɪ] の発音になることはありません。
まとめると、次のようになります。
当サイトでは、[ɐ] と [ə] の記号で表します。
/i/ … [ɪ] ~ [ɨ]
/i/ が弱化すると、次のような2つのかなり違った発音になります。
硬子音の後におかれたときは、アクセントのあるときとあまり変わらずに [ɨ](非円唇中舌狭母音)で、日本語の /イ/ を発音するときのように唇を横に引いたまま、舌全体を後ろに引いて発音します。口の開きを狭くして、口の奥の方から、/イ/ と /ウ/ の両方の音を響かせたような発音です。
語頭におかれたり、軟子音の後におかれたときは [ɪ](非円唇前舌広めの狭母音)で、あまり口を緊張させずに [i] を発音します。日本語の /イ/ を曖昧に発音すれば問題ありません。
当サイトでは、[ɨ̞] を使わずに、[ɨ] と [i] の記号で表します。
/e/ … [ɨ] ~ [ɪ] ~ [ə]
/e/ が弱化すると /i/ が弱化した発音に近くなります。
語頭や硬子音の後におかれた /e/ が弱化すると、[ɨ](非円唇中舌狭母音)や [ə](非円唇中舌中央母音)となります。このときの [ɨ] は口の開き具合が広めなので、どちらも日本語の /イ/ と /エ/ の両方を曖昧に響かせたように発音すれば問題ありません。
もっと細かく区別すると、単語の中でどのような音節に含まれるかによって、二段階の弱化があって、それが [ɨ] と [ə] の違いとなります。しかし、特に意識して区別する必要はないので、発音の違いについては、下の補足欄を参考にしてください。
軟子音の後におかれたときは [ɪ](非円唇前舌広めの狭母音)で、あまり口を緊張させずに [i] を発音します。日本語の /イ/ を曖昧に発音すれば問題ありません。
なお、軟子音の後の /e/ が語末におかれた場合は、/a/ のときと同じように特別に [ə] と発音されます。
当サイトでは、[ɨ̞] を使わずに、[ɨ], [ɪ], [ə] の記号で表します。
/u/ … [ʊ]
/u/ が弱化すると、[u] の口の緊張が少し緩んだ発音 [ʊ](円唇後舌広めの狭母音)になります。硬子音の後でも、軟子音の後でも、発音はほとんど同じです。
アクセントのあるときの [u] を少し曖昧に発音すればよいのですが、唇を丸めることを忘れてはいけません。
当サイトでは、[ʊ] の記号で表します。
語末の軟子音の後の /a/, /e/ について
軟子音の後でアクセントがないときの /a/ と /e/ の発音は [ɪ] ですが、語末では [ə] と発音されると説明しました。
しかし、語末ではいつでも [ə] と発音されるのではなく、次のような場合に限られます。
名詞の格の違いや、形容詞の性の違いをはっきりと示したいときは、-/je/, -/◌ʲe/ を [je], [◌ʲe] のように、アクセントのあるときの母音に近く発音することがあります。
補足
ロシア語の母音音素の数を6つとする研究者もいるようです。その考え方では、/i/ の代わりに /i/ と /ɨ/ の2つの音素を想定しています。
これまで説明したように、アクセントのある場合の /i/ の発音は、[i] と [ɨ] というかなり違った発音となります。この2種類の発音を文字で書くときは、基本的には и と ы という違う文字で書き分けます。ロシア語の歴史を考えると、かつてこれらは別々の母音でした。このようなことから、母音音素が6つだと考えるのも一理あるように思えてきますね。
しかし、現代ロシア語では、[i] と [ɨ] が発音されるのときの、その前後の音声環境はまったく違っていて、重なり合うことがありません。これを音声学では、[i] と [ɨ] は相補分布(そうほぶんぷ)をしていて /i/ の異音(いおん)であるといいます。
また、/ˈon i oˈna/「彼と彼女」он и она をゆっくりと間を開けて発音すると [ˈon i ɐˈna] となりますが、一続きに発音すると [ˈon‿ɨ‿ɐˈna] のように、硬子音 [n] の後に位置するので [ɨ] と発音されます。これも前後の音声環境によって [i] と [ɨ] が変わることがある一例です。
まとめ
ロシア語の母音の発音について、多くの教科書に書かれていない細かな点も含めて説明しました。
母音を発音するときに気をつけなければいけない、重要な点は次の通りです。
これ以外の細かな発音の変化は、それほど意識する必要はありません。発音が気になったときに参照してください。
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