朝鮮語の母音ㅓの発音について説明します。
朝鮮語の学習書の多くに、母音ㅓ(어)の発音は [ɔ] であると書かれています。しかし、実際には国際音声記号で定義される [ɔ] のような円唇母音ではありません。むしろ [ʌ] に近い発音です。
なお、ここでは、主に朝鮮半島において朝鮮民族が話す言語を朝鮮語と呼ぶことにします。また、ソウル方言の発音を中心に考えます。
学習書にはどのように書かれているでしょうか
入門書や初心者向けのほとんどの学習書には、母音ㅓ(어)の発音として、発音記号 [ɔ] が書かれています。そして、日本語の「ア」と「オ」の中間のような音であるという説明が多くなっています。手元にあった書籍の記述をいくつか引用します。
[ɔ]:「ア」と「オ」の中間的な感じの音。口を縦に大きく開けて、舌先を少し奥へ引いて発音する。
しっかり学ぶ韓国語, ベレ出版
[ɔ]:日本語のアとオの中間的な音で、アよりも口のひらきを小さくして、オを発音するようにする。
朝鮮語辞典, 小学館
[ɔ]:唇を丸めずに口を楽にして「オ」と発音します。
NHKラジオハングル講座 2022年4月号, NHK出版
入門レベルの学習者を強く意識して、日本語の母音との比較で説明しています。どうやら、唇を丸めずに、日本語の「ア」と「オ」の中間的な発音をすれば良いようです。
では、日本語の「ア」や「オ」はどのような発音でしょうか。日本語を母語とする人の中でも、「ア」はともかくとして、「オ」の発音には個人差が大きいのではないでしょうか。
このようなときに、発音記号、より正確には国際音声記号(IPA)が助けになります。音声学の知識を活用すると答えが見えてくるはずです。
多くの学習書に書かれている [ɔ] は、IPAでは「円唇・後舌・半広母音」と定義されていて、次のような特徴の母音です。
唇を丸めないで日本語の「ア」と「オ」の中間的な発音をするという説明なのに、発音記号では唇を丸めて発音することになっています。矛盾していますね。
なお、IPAについては、次の記事で説明していますので参考にしてください。
大韓民国の「標準語規定」を読んでみます
大韓民国では、「標準語規定」で標準語を定めています。その「第2部 標準発音法」から、母音ㅓ(어)に関係する部分を要約します。
標準語規定では、単母音を10個として、これらを次の3つの基準で区分しています。
そして、単母音ㅓ(어)は「非円唇・後舌・中母音」に区分されています。ただし、最新の2017年版では、それが具体的にどのような音声であるかは規定していません。
なお、10個の単母音は次の表の通りです。
前舌母音 | 後舌母音 | |||
---|---|---|---|---|
非円唇母音 | 円唇母音 | 非円唇母音 | 円唇母音 | |
高母音 | ㅣ | ㅟ | ㅡ | ㅜ |
中母音 | ㅔ | ㅚ | ㅓ | ㅗ |
低母音 | ㅐ | ㅏ |
ちなみに、IPAでは「非円唇・後舌・半狭母音」に [ɤ] を、「非円唇・後舌・半広母音」に [ʌ] を割り当てています。口の開きがこの2つの中間である「非円唇・後舌・中央母音」には記号を割り当てていません。
ここで、ㅓ(어)の発音が [ɤ] と [ʌ] の間の発音であると言っているわけではないことに注意が必要です。
朝鮮語の母音音素を3つの基準で区分して整理した母音体系の中で、ㅓ(어)は、舌が後ろ寄りで、口の開きが中くらいで、唇を丸めずに発音する母音であると言っているだけです。ですから、実際の発音は [ɤ] に近いかもしれないし、[ʌ] に近いかもしれないし、またその間かもしれません。あるいは、これらより前寄りの発音かもしれないわけです。
唇の丸めの程度にも、まったく丸めない発音としっかり丸める発音の間には、どこかに境界があるわけではなく、さまざまな連続した発音が考えられます。ここでは、唇を丸めるか、丸めないか、と言えば、丸めない母音として考えるということです。
[ɤ] と [ʌ] の母音の違いについては、次の記事でも説明していますので参考にしてください。
実際にㅓ(어)はどんな発音でしょうか
趙・呉(2004)の研究
では、実際の標準的な発音はどのようなものなのか知りたくなりますね。ここでは、趙・呉(2004)を参考にします。これは、東京外国大学大学院の21世紀COEプログラム「言語運用を基盤とする言語情報学拠点」の研究報告の1つで、朝鮮語の使用地域、規範と方言、文字と発音、音韻体系、アクセントとイントネーション、音声変異などを詳細に解説したものです。
興味のある方は原文を参照してください。大胆に要約すると、要点は次の通りです。
円唇性に関しては、[ɔ] と [ʌ] の中間よりは円唇性が弱く、[ʌ] に近い発音のようです。
梅田(1994)の研究
梅田(1994)はソウル方言の母音について、話者の世代別に調査して、世代差の実態と世代間の変化の過程を調べました。この調査によると、1960年代生まれの話者(1988, 1989年の調査なので当時20代の若者です)の発音は、やや前寄りでやや狭い [ʌ] であるとしました。IPAの精密表記でより正確に記述すると [ʌ̟̝] と表せるような音です。
ㅓの長母音について
文字の表記には表しませんが、朝鮮語の第1音節には長母音と短母音の区別が存在すると言われています。現在では、その長短の区別も失われつつあって、ソウル方言を話す若年層では、ほとんど短母音化しているようです。
音素 /ɔ/ の長母音は、単母音とは違う [əː] の音声で発音されます。これは非円唇・中舌・中母音なので、短母音の [ʌ] よりも前寄りの発音です。しかし、ソウル方言を話す若年層では、この長母音もほとんど短母音となって [ʌ] と同じ発音になります。
わたしの聞いた印象では、完全な短母音ではなく、わずかに長いようにも聞こえます。その場合は「半長」の記号を使って [ʌˑ] と表すことができるかもしれません。
まとめ
朝鮮語の母音ㅓの発音について考えてみました。そもそものきっかけは、わたし自身の次のような疑問からでした。
結論は、朝鮮語のㅓ(어)は非円唇・後舌・半広母音 [ʌ] で発音するということです。もちろん、朝鮮語の母音体系の中で考えれば、唇を丸めてしまって /o/ に聞こえてしまわないように、また、口を大きく開けすぎて /a/ に聞こえてしまわないように注意すれば良いのです。
コメント